【佐賀・唐津の偉人】
万延元(1860)年、肥前国唐津藩医・保利文溟の二男として生まれる。明治20(1887)年度に東京帝国大学医科大学を卒業、大学卒業後日本陸軍講習生として大学院に入り、眼科学を専攻。大学院終了後は、医術開業試験委員、日本赤十字社病院眼科主幹等を歴任した。
明治26(1883)年、陸軍からドイツ留学を命じられベルリン大学で眼科学を学ぶ。さらに、オーストリアのウィーン大学、ドイツのハイデルベルク大学、フランスのパリ大学にて就学。帰国後、軍医学校教官となる。軍医学校では森林太郎(鴎外)校長の副官をつとめた。さらに明治44(1911)年に陸軍軍医学校長、大正元(1912)年に軍医監近衛師団軍医部長となり、大正7(1918)年には大正天皇の侍医となった。
多くの著書を著し、検眼機器の創案など日本の眼科学界第一人者であるのみならず、その功績は海外でも高い評価を受けている。また、大正天皇が眼鏡を使うのを威厳を損なうとして元勲たちが反対した時、医学的見地から眼鏡を着用した方がよいと堂々と主張したという。
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